con amore

砂原と彩



 私なりのちょっとした砂彩解釈として、まずは、砂原によく似合う久石譲の「Summer」という曲についてのお話を少しする。
 久石さんの楽曲に多く使われる「完全4度」と「完全5度」という音程なのだが、この曲はそれにしても多く使われている。( 完全4度5度とは、完全音程の一種。完全音程とは二つの音の音波の波形の比率が整数になる音程のこと)
 完全音程は非常に綺麗に噛み合わさる音同士なので、微妙な摩擦やこすれを感じにくく、爽やかさや透明感が強くなる。しかし一方で、ざらざら感が無く “完全” と感じるくらいに澄んでいるからこそ、どこか空虚さが残る。それが物悲しさや哀愁を漂わせる要因だろう。
 砂原には、完全ではなくともカッコよく輝いている自分を当たり前に信じてほしい。そう思う私がいる一方で、空虚を抱いて寂しさの中に立ち尽くして、それでも完全な自分でいたいと前を向く背中だけを見せるその在り方、それこそが砂原翔という人の強さをあらわしていて、砂原翔に魅了される人がいる理由なのだとも感じる。

 私は、若武のほかに砂原も英雄の資質を持っていると考えている。おそらくこれは私の友人が仰っていた「太陽」と近い感覚として私にも残されていて、ただ、同じく英雄の資質といっても、やはり二人には違う所があるのだ。
 若武の資質は、そのとき一瞬に発揮されるヒーロー性。過去がどうであれ未来がどうであれ、若武和臣という男はそのときの一瞬でそのときの誰かを、あえて大きく言うならば、世界を若武の色に感化させる、光を見させて光を指す英雄。彼自身が太陽そのものとしてその場に立ち人を前から照らす男であるのだ。

 一方で砂原の資質は、過去により発揮されるヒーロー性のように思う。人には誰しも過去がある。その過去をどう抱えているかは人によるけれど、抱えていることはみな同じ。砂原の、その重さを甘く見ることなく雑に扱うことも過度に丁重に触れることもなく、ただ自分の足跡としてしっかりと見つめて自分と向き合い続けるひたむきで懸命な在り方は、きっと、彼と触れ合う人に大きな楔を残していく。灰にしてしまいがちな過去をひとつまみの砂金にする力を、そこに見つけられる。それが砂原のヒーロー性だと感じている。
 けれど、その誰かがようやくそれに気がついた時、砂原自身はもう誰かのそばにはいない。彼はもう次の場所で自分自身をまた見つめ直している。砂原は、どこにいても砂原翔であるそのヒーロー性を持ちながら、どこに行っても足跡を残すだけで誰かの時の前には立たない。懸命なひたむきさと強さは、誰かが光を探す力にはなり得ても光まで導く力として誰かに影響することは、まだできないような気がしている。彼自身がまだ探す旅の中だからだろうか。
 私は砂原を、「英雄」ではなく「英雄の資質を持つ人」と感じている。時にそれは、光まで導くことよりも強い力として人の心に残る。そばにいなくとも、彩が砂原のことを大事な人だと感じていて、そして砂原にとっても自分は大事な人だと思えているのは、そんな砂原だからこそかなと思う。
 光を探す力を与えられる男から最大限の愛を渡されているのなら、そこには朽ちることの無い温もりがある、きっと。

 砂原翔を敬愛する立花彩が素敵な理由は、その在り方に同情を向けるのではなく、純粋にまっすぐに応援と尊敬を抱き、その背中を色褪せず塗り直さず覚えている所だなと思っている。
 私が目を瞑って想像したとき、ひまわり畑で砂原の背中を見つける彩がその手に掴んだひまわりは、砂原翔の方を向いている。そして、ひまわりに囲まれた砂原翔が見つめる先は、陽の光。
 ただ、彼はいつも、立花彩の面影を陽の光にみるばかりで、どうしてだか会うことが叶わない。そして彩も、どうしてだか、砂原翔の背中にばかり面影をみる。
 砂原と彩が本当に結ばれるのは、彩がその背中に触れて手を掴み、砂原の抱える過去を感じられた時。同じく砂原が、見つめる先を陽の光ではなく彩にしたその時なのかなと思ったり。
 あなただけを見つめる。そう、決めても。その”だけ”に縛られない強さをいつか見つけてくれたら。そうして、二人の幸せを。
戻る